ABOUT NOTRUNKS
その昔名器と謳われたアルテックA7(小劇場用スピーカー)が鎮座するジャズ中心のダイニングバーです。新譜はほとんどありません。ジャズに新しいも古いもない、宣伝量の多さが内容の濃さではないのです。A7で確かめてください。酒も飲めて、料理もそこそこ、週末にはライブも楽しめる。そんなジャズの発信基地が目標です。ジャズ・バーとしての比重が高いと思いますが是非遊びに来てください。ジャズの奥深さを共に楽しみましょう。
所在地:東京都国立市中1-10-5・5F TEL:042-576-6268 定休日:火曜日、水曜日 営業時間:18:00 〜 23:00 日曜祭日:18:00~22:00
店主 村上 寛 プロフィール
1950年、寅年生まれです。2001年の秋にNO TRUNKSをオープンさせました。2001年宇宙の旅です。20歳の頃、オープンしたばかりの吉祥寺「メグ」の初代レコード係りを経験した後、24歳の時就職し、27年間務めた新星堂を退職した年です。
在職時代の多くはディスクインの店長としてでした。高円寺ディスクイン No.1を皮切りに吉祥寺の路面にあったディスクイン N o.2、立川ディスクイン(残念ながら全て消滅しました)と歴任し最後はディスクインが3店統合された吉祥寺ディスクインで燃え尽きました。新星堂のジャズは私が背負っていたと自負しております。傍系レーベル、オーマガトキの中央線ジャズ・シリーズを全てプロデュースしました。1985年には10余人の勇志を募って東京ニュー・ジャズ・フェステヴァルをスタートさせました。渋さ知らズや林栄一、片山広明を愛しみ育て上げたと勝手に思っています。
レコード・コレクターズやクロスビート誌でジャズ評論を、本名である村上寛やペンネームである瀬戸蓮二の名でやっていたのもこの当時です。硬派のジャズ・ファンですが涙もろいので演歌的なジャズも大好きです。私=当店は耳あたりのよいムード・ジャズは得意ではありませんので、その点はご容赦ください。ジャズ以外には陶芸を少々とバイクツーリングをたまに。温泉と桜を愛します。そして毎日3合ほどの芋焼酎をたしなみます。
※東京ニュー・ジャズ・フェステヴァル
1985年当時、まさにバブル全盛期、ジャズ・フェスは商業主義に堕落していた。 タバコを奨励する国策が進められ、一億総ヘビースモーカーへと突き進んでいた。 そこで得られた巨万の富は、税金対策なのだろうか、ジャズ・フェスへと惜しげもなく投入された。そしてネームバリューの高いミュージシャンばかりが何度も来日することになる。 そんな状況に不満を募らせた私は、高円寺ディスクインに集う顧客に目をつける。 甘い言葉でたくみに勧誘、時に恫喝し10余人の同志を集めることに成功。 彼らには5万円の出資と血判が課せられた。そして、お祭り騒ぎではない意義あるフェスティヴァルの開催を企画実行する。 東京new jazz festivalは今も存続するドイツはメールスのジャズ・フェスとの連帯感から命名した。
あれから20年、休んだ年も何回かあるけれど解散したわけじゃない。 次もあるからね・・・次も。
■ 1985 | 1986 | 1987 | 1988 | 1988_ticket | 1990 | 1991 | 1992 | 1994 | 1997 | 2000| 2015
・国立で2007年〜2013年に開かれた「国立POWER JAZZ」
店名の由来
東京new jazz festival (tnjf)はレコードも2枚作っている。片山広明の「so kana」と早川岳晴の「salt」(ともにスタジオ・ウィーがCD化)だ。発売するにあたりレーベル名をNo Trunksとしました。色々考えた挙句の選択でした。 巨大な組織の冠コンサートに対抗して立ちあがった我々10余人の闘士。選ばれし屈強な若者がボクシング・リングの上にグローブをつけて登りました。いざガウンを脱いで戦いの開始です。・・・はて?観客の失笑が聞こえます。情けない話ですが、ボクサーは緊張のあまりトランクスを穿いてくるのを忘れてしまったのです。強い意志はもっていましたが何か空回りしている間抜けな男。こんな図です。我々tnjfはそんな集まりでしょう。 会社を辞めて店をオープンさせる時、長く封印されていたNo Trunksを店名にしょうと決めていました。何故なら、その時の私も間抜けなボクサーのようでしたから。
オヤジ@赤提灯
村上寛のライフワーク? 是非お立ち寄りください。
・過去アーカイブ(横浜編 Last Update 6.20.2016)