アケタの店、明田川荘之さんの事 2024年12月31日
2024年11月16に日土曜日。明田川荘之さんが亡くなった。パーキンソン病を患い、腸がん~食道がんが発見され、胃瘻処置をしての4カ月ほどの入院。
アケタさん、お疲れ様。
彼と私は古くからの顔見知り。74年にアケタの店がオープンした頃、私は新星堂に努めて半年くらい、転属先が西荻窪店。69年から西荻の住人で、当時ジャズ雑誌読者欄の投稿「ジャズ同好会募集」で集まった「細田亭ジャズ愛好会」のメンバーだった。
東映のアニメーターだった細田暉雄さんが主導する会で面白い出会いが山ほどあった。吉祥寺のMEGを開店させる前の寺島靖国さんともその会で知り合った。それが縁でMEGの初代皿回しに採用してもらう。
細田さんの部屋は玄関から入るのではなくテラスから直接入る。デカいスピーカーと座り心地のいいソファーが有って、夜中の2時くらいまで出入り自由だった。19歳から、25歳で西荻を離れるまで、楽しませてもらった。
アケタの店と細田亭は歩いて2,3分の距離にあり、店がオープンした頃は、「大学卒業したばかりの若造(私と同い年)が親から借金してライヴハウスを開店するらしい」と話題になった。
数回店に行った程度で暫くアケタとは縁が切れる。私が青梅店の店長に抜擢され西荻を去るからだ。
多摩の新星堂を数店舖経験し、中央線の繁華街に帰ってくるのは1979年私が29歳の時。当時、タワーレコードやHMV等の外資系が東京に進出し始め、新星堂も輸入盤の重要性に気づいたのだ。高円寺の新星堂発祥店をNO.1とし、吉祥寺に有った、レコード・プラントを買収しNO.2とする、Disk Inn販売部が発足する。
洋楽&ジャンル専門店。アイドルや演歌とはオサラバ。俄然やる気が出てきた。
さて、アケタさんとあまり関係ない話をグダグダと書きました。当時の私はアケタさんの音楽に共鳴していたのでしょうか?あまり良いリスナーではなかったと思う。当時の私は、ジャズを高尚な神聖な音楽ととらえていた。アケタさんのへたくそなイラストのジャケットや演歌チックな演奏を見下していた。
1987年12月30日に録音された「エアジン・ラプソディ」が私の明田川さん偏愛衝動の始まりだった。ほんの一月程前に交通事故で亡くなった国安良夫に捧げられた、アケタの店でのライヴ音源だ。父親の絵画をジャケットに選び、7名ではあるがアケタ西荻センチメンタル・フィルハーモニー・オーケストラと名のる、初のビッグバンド編成。グッと来た。胸ぐらを掴まれてしまった。
好きが高じて1991年には新星堂オーマガトキ・レーベルで「わっぺ」まで作ってしまう。
それのお礼だったか忘れたが、アケタの無料パスポート?までもらった。悪いのであまり使っていませんが>
1985年からスタートした東京ニュージャズ・フェスティヴァルにも1990年に出演してもらった。2001年、新星堂を退社しNO TRUNKSをオープンさせるが、明田川さんには定期的に出演してもらう。アケタの店以外では、東京で明田川さんが出演するのは当店だけだったはずである。
アケタの店にはよく行った。明田川さんのライヴは勿論だが、林栄一や板谷博のライヴにも。高円寺の店を終えると西荻へ。演奏終了後は近くの居酒屋へ。始発時間まで呑み、かつグダグダ激論。理論派の板谷さんにはいつも泣かされていた。当時西荻に住んでいた林さんの家に泊めてもらう事も。
片山さんが出演の時は、終演後武蔵小金井のお宅にお邪魔して始発までよく飲んだ。
板谷が、片山が、松風が、そして明田川荘之までも。私の考えるジャズを再構築してくれた、中央線ジャズの面々に感謝。
特に明田川荘之の、演奏者、店舗経営者、レーベル運営者、多義にわたる功績に平伏。
私は貴方を深く尊敬し、決して忘れません。